『人体実験の哲学』書評:誰がリスクを引き受け、誰が利益を得るのか?

人体実験の哲学――「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史

人体実験の哲学――「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史

 

医学の歴史はヒポクラテスに始まり、ガレノスの体液説、ヴェサリウスの解剖学、ジュンナーの種痘、コッホの結核菌の発見などが綴られます。中でも近代医学史、実験医学の萌芽期は熱気があり、輝かしく、ワクワクするものです。医学史は人類の敵である病気と闘う医者の歴史でした。

しかし、待ってください。医学である以上、「患者」がいたはずです。医学史はリスクのある治療の効果をその身体で証明してきた、多数の、無名の、声なき「患者」の歴史でもあったはずです。

彼らは誰で、なぜ医学実験を引き受けたのでしょうか。

本書は、語られてこなかった近代医学史の暗がりに光を当てます。近代医学がフロンティアを開拓していくとき実験材料とした人体には偏りがありました。利用されたのは「卑シイ体」、つまり、犯罪者、死刑囚、貧民、娼婦、孤児、労働者、奴隷など、社会から価値がないとされた人たちでした。彼らの身体は、インフォームドコンセントも何もなく、贖罪として、公益に資するものとして、治療の対価として、工場生産管理の一環として、簒奪の対象として、利用し尽くされたのです。

 

本書の読みどころは3つに分類できます。

  • 医学実験で使われる概念装置の歴史

「実験」というものが各時代でどのように捉えられていたか、現代のような二重盲検プラセボ対照比較試験やインフォームドコンセントといった概念が誕生する以前の歴史を知ることができます。

  • 人体実験を正当化する言説、「卑賤化の技術」の形態学

例えば、死刑囚は、「罪人であり尊厳を主張する資格がない」「どうせ死ぬなら有用性を引き出すべきである」「実験に参加することが罪の償いになる」「生きながら死んでいるようなものであり法的人格などない」などといった理由で、実験的な医学のためその身体に害を及ぼすことを正当化されてきました。現代でも変奏される話型をここに聴くことができます。ヴォルテールディドロといった啓蒙主義者でさえもこういった言説に加担していました。 他方、カントは、当時効果の真偽が議論の的であった種痘について「人類全体に有益な結果をもたらすとしても、一部の人間に確率的に害をもたらすことは、道徳原則上許されない」という理由で反対でした。現代的な視点からするとちょっと首をかしげるところがありますね。その後、種痘の効果が確認されたことで、「不作為の害」を見逃すことの倫理性、公衆衛生の倫理が問われるようになります。

  • 実験用人体を獲得する装置・手段の歴史

例えば、ホスピタルは元来救貧施設でした。臨床医学の成立と同時に、ホスピタルは医療施設としての『病院』となりました。しかし、『病院』はまだ我々が想像するものとは少し違います。『病院』は、それまでのホスピタルを引き継いで、貧民に対して、治療を対価に、医学生職業訓練やリスクを伴う実験的な治療を行う場でした。そして、そこで得られた知識や技術は裕福な顧客に供給されました。医者は富裕層に対しては彼らの家宅で医療を提供しました。

 

個人的に、目から鱗だったのは、プラセボ対照試験が、当時の正統医学と、いまも巷を賑わす代替医療の代表格であるホメオパシーの対立関係の中で生じたという歴史でした。そして、当時の医学は瀉血を堂々とやっている時代だったので、「少なくとも害をなさない」ホメオパシー治療の方が優れている面も多かったのです(あくまで当時の話ですが)。そんなルーツがあったのか。なるほどなあ。

あと、もう一点。医学生をやっていると、ピロリ菌を自ら飲み込んで胃潰瘍の病態を証明したマーシャル先生の「英雄譚」を散々聞かされるのですが、こういった話型の歴史を知れたのも収穫でした。かつて自己実験は、「そんなに有効な治療なら自分に使って見たら?」という煽りに対するパフォーマンスとして行われたり、さらにこれが逆転して「自己実験をするくらいなら有効な治療なんだろう」という信憑を形成するための話術として採用されたり、「おれは自分で試したんだから他人で試してもいいだろう」というよくわからない正当化に使われたりしてきたのです。おもしろいですね。

 

本書はきらびやかな近代医学史に陰影をもたらします。標準的な医学史本を読んで嘘くささを嗅ぎ取った方にぜひおすすめしたいです。ここにその理由が書いてあります。

 

* ただし、ちょっと知識が必要な本なのでふつうの医学史の本を読んでから読まれることをおすすめします。 

まんが医学の歴史

まんが医学の歴史

 

とか。面白い本です。

(東)