<欠乏>は心を占拠する:『いつも「時間がない」あなたに』

<欠乏>は心を占拠する。空腹の被験者が食べ物のことで頭がいっぱいになったのと同じように、人は何かを欠乏すると、それに心を奪われる。心は自動的に・否応無く・満たされていないニーズの方を向いてしまう。
概要

本書は、時間が足りないと焦っている人、お金が足りず生活が苦しい人、ダイエット中で空腹を感じている人、友達が少なく孤独を覚えている人…等々、自分が持っているものが必要と感じるものより少ないと感じている人たちには、共通の<欠乏>のマインドセットが存在することを示し、<欠乏>のマインドセットを考慮に入れたより有効な制度設計を提案するという本です。 

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

中心となる主張

① <欠乏>は目先の課題に対する集中ボーナスをもたらす。締切前には締切ブーストがかかる。

② しかし、目先の課題以外のことは無視されるようになる。つまり、心理的視野狭窄トンネリングを起こす。

③ さらに、<欠乏>は、人にトレードオフ思考とその場しのぎのために知恵を巡らせること:ジャグリングを強いて、全般的な処理能力を奪う。

④ そして、その場しのぎは、時に、問題を先送りにするだけで、中長期的にはより大きな問題を生み、その取り返し・後始末のために資源を浪費する結果となる。これを欠乏の罠と呼ぶ。

⑤ 欠乏の罠にはまらないために必要なのは、スラック(物質的・時間的な余裕)と、処理能力にむやみに負荷をかけないルール・システム・アーキテクチャである。

 

時間の<欠乏>でこのような状況になった心当たりがある人は多いんじゃないかと思います。例えば……試験勉強を先送りにして、バイト・部活・遊びの予定をどんどん詰めて忙しくしていたら、いつの間にか試験1週間前。やばい。シンクに洗い物がたまる。そういえばシャンプーが空になっていた。今は対処している余裕はない。やばい時に限って部活でトラブルが発生。構ってられない。詰め込みで勉強をしてスレスレで通る。「次はもっと余裕をもってやろう」と反省するも、同じことを繰り返す。部活の方では「やるべきことをやらない」と信用が下がっていた、というようなことです。

 

金銭の欠乏、貧しさによっても、人は余裕を無くして、一見不合理な行動をとります。借金を返すための借金をする、麺類中心の高カロリー高塩分な食事をとる、怠薬、喫煙、患者教育をしても次の回には忘れている、など、貧しい人は自分の生活や健康を害する行動をしがちです。統計学的な事実です。

なぜこのような自滅的な行動をするのでしょうか。「バカ」だからでしょうか(同じポリクリ班の医学生の言葉)。

 1つの原因として、本書では「貧しい人は、まさに貧しいという状況のために、処理能力が奪われている」という解答を出しています。貧しい人は、何かを買うときには「これを買えばあれを買えなくなる」というような比較考量をしなければいけません。子どもの世話をしたいが、生活費も稼がないといけない。進学費用を貯めたいが、今日生きるためのお金も必要だ…、など、そういった生活の心配で頭がいっぱいです(トレードオフ思考)。よりにもよってお金がないときに、体調を崩し医療費がかさみます(スラックのなさ、欠乏の罠)。今の生活に忙殺されていて、将来のための健康のために食事をする・運動をする、症状が出ていないのに薬を飲むなんてことは忘れて当然、出来なくて当然です。タバコやアルコールは今日をなんとかやり過ごすための自己治療という側面があります。(トンネリング)

 

 Poverty Impedes Cognitive Function  

著者は「貧しい人は金銭にまつわる心配を喚起されると認知能力が落ちる」ということを示す実験を行なっています。

 方法:著者たちは、ニュージャージー州のショッピングモールで客に協力をお願いして、知能検査を受けてもらいました。知能検査の直前には、自動車の修理費に関するシナリオを提示し、金銭にまつわる判断をしてもらいました。シナリオには二種類あり、「少額の修理費を今払うかどうか」「高額な修理費を今払うかどうか」というEasyなシナリオとHardなシナリオがあり、ランダムに振り分けました。

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 レーベンマトリックス知能検査

 結果:成績を貧しい人と貧しくない人で分けると大きな違いがありました。まず、貧しい人も貧しくない人も、Easyなシナリオでは同程度の成績でした。しかし、Hardなシナリオを見せられた場合、貧しくない人はEasyなシナリオの時とそれほど成績が変わらないのに対して、貧しい人は大きく成績を落としました。

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議論:結果の頑健さを確かめるために、算数への苦手意識の有無で統制したり、金銭的インセンティブを加えたりしましたが、やはり同じ結果になりました。貧しい人は金銭的な心配を喚起されたため処理能力を落としたのだと著者は主張します。そして、金銭的な心配を喚起されることによるこの認知能力の低下は、IQでいうと13ポイント程度にもなり、これは一晩の徹夜明けの認知能力の低下に相当します。

 

ポイントは、「貧しい人はもともとIQが低い」「IQが低いから貧しくなる」というような種類の関連を主張しているのではないということです。貧しい人は貧しさに対する不安・心配をなんらかの外的な状況によって喚起されただけでーー普段から1日に何度も喚起されるでしょうーー、認知能力が低下する、そういった〈状況の力〉が働いているのだ、ということを示しています。

また、認知能力と同じ前頭葉機能の一つであるところの実行機能もまた欠乏によって鈍ります。

このような欠乏効果を知ることは「本人のせいにしない」ための根拠の一つになるでしょう。*1

 

 ここでは紹介しませんが、他にも本書では、数多くの心理実験、エピソードを「欠乏」という観点で捉え返しています。

本人のせいにしないでうまくやる工夫

ではどうしたらいいのでしょう。著者は、分析するだけではなく、<欠乏>による処理能力の低下に配慮した制度設計、指導の仕方を具体的に提示していきます。

例えば…… 

  • ダイエット、<カロリーの欠乏状態>で重要なのは細かいカロリー計算ではなく、処理能力を奪わない単純なルールです:炭水化物をできるだけ抑える、のような。
  • 手術室が不足して、手術室が混み混み、急患のせいで手術スケジュールの変更が発生しがちな病院に必要なのは、常に一部屋は『追加』用に空けておくことです。
  • 人はひとときにまとまった時間やお金を得ると、その多くを無駄にしてしまいます。誰だったそうです。よって、学生へのレポート期限はなるべく短く・小まめに、貧しい人への給付金はなるべく小出しに設定するべきです。

この姿勢は近藤尚己さんいうところの「がんばらなくても健康になってしまう街づくり」という方向性とよく似ていると思われます。

 

そういうわけで、忙しくて時間がない人と、お金がなくて困っている人の「共感の架け橋」となる本書を推薦したいと思います。忙しくて読めないかもしれませんが、ハヤカワ文庫から小さい本で出ているので、まずは買って鞄に入れておいていただくと、ふいと空いた時間に読めるかも。*2

 

ついでに……

 

 

ゆるふわな表紙ですが、エグってくる作品です。友達が足りない、恋人が足りない、お金が足りない、頭が足りない、信頼できる家族が足りない……自分より持っている人を焦がれるほど羨み、かつて<持ってない仲間>だった友人が「先駆け」したことに困惑と淋しさと怒りを覚える、そしてそんな自分の卑しさを嫌悪する、そういった<欠乏>の心理描写がこれでもかと活写されています。 『このマンガがすごい!』2015年版オンナ編第1位。

 (東)

*1:私たち人間は、「逸脱行動をした人はその人が悪い人間だから/本人の性格が悪いからそうしたのだ」と想定しがちです。この傾向は、社会心理学では対応バイアスと呼ばれています。

*2:自分に読書をうながすという点において、電子書籍はあまりおすすめしません。アプリを開かない限り目につかないので。